Profile

『潮』1997年5月号
ヒューマン劇場29 加納 洋
「ニューヨーカーの心をつかむ盲目のピアニスト」



ラフなスタイルで、加納洋はやってきた。

風貌は、野武士である。

この人が、繊細な音を紡ぎだしニューヨーカーの耳を楽しませている現役のミュージシャンなのか? だが、人なつこい笑顔で語り、人の話に耳を傾ける姿に接すると、体全体から滲み出してくる音楽が聞こえてくるような気がした。

加納洋は、目が見えない。

昭和二十九年、岐阜県中津川で生を受けた加納は生来の弱視で、五歳の頃には「三メートル先が識別できなかった」という。十九歳になってすぐにすべての光を失った。以来、加納の網膜は像を結ばない。

「僕の場合、全然見えなかったというわけじゃなかったですから、中学までは普通学校に通っていました。

いまマスコミで取り上げられるような障害者問題は、あまり論じられない時代で、普通の学校に行くのが当たり前のように通っていました。それでも、小学校の二、三年の頃に、父が学校側から『盲学校に入ったほうがいい』と言われたようです」

周囲の環境や、同じ学校に通う同窓生との折り合いを学校側は考えたのかもしれない。その時父は、普通学校に通い続けられるよう、すべての手をうった。わが子の将来を思いやり、考えた末に子育てのためのいくつかの「方針」をたてていた父だった。

「多少わがままでもいい、自分を主張できる強さを身につけた人間にすること。人間関係を円滑にできる人間にすることなどいくつかあったようです」

なかでも、加納が父に感謝しているのは「少しでも目の見える間は普通の学校に通わせ、健常者の間でもまれて苦労させること」だったという。

「学校に言われるまま盲学校に通っていたら、当然寮生活だったろうし、他の生徒と違って僕はまだ見えるわけですから、きっと狭い社会の中でお山の大将になっていたでしょう。字を読むスピードも、点字とでは比べものにならないくらい速いわけですから」



父のたてた「方針」が音楽の才能を育んだ

加納は、幼い頃から一緒に遊んできた近所の友だちに、手加減のない手荒い扱いを受けながら、それこそ普通にドッジボールをし、普通の学校生活を送った。

「鍼灸やマッサージで国家試験を受け免許を持っても、仕事がない、人間関係がうまくいかない。しれは盲学校などの隔離された社会で育つからだ、という意見もあるんです。それを父は知っていたのではないかと思います」

目が不自由だった代わりではないが、加納の耳はあらゆる音に敏感に反応する。音楽が、加納にとって生涯の伴侶になったことも、当然といえば当然だったのかもしれない。 だがそれには、加納が音楽の素晴らしさや音楽の持つ力に目覚めるためのキッカケが必要だった。そのキッカケを作ったのは、ほかならぬ父だった。

実は、加納の父のたてたもう一つの「方針」が、「自分の気持ちの支えにもなり、将来は仕事にもできるようにと音楽を身につけさせること」だったのだ。 父は、加納が五歳になるとピアノのレッスンに通わせた。

「すぐやめました。当時は、男の子が行く場所じゃなかったから(笑)」 そして九歳になった加納が自分から、「トランペットをやりたい」と言い出した時にも、すぐに通わせてくれたという。レッスンにも父が連れていってくれた。「親戚の一人が、田舎の消防団などのブラスバンドに入っていて、なにかあると行進したりするじゃないですか。きっとそういうイベントを見ていてカッコいいと思ったんじゃないでしょうか」

ピアノと違って、自分から習うと言ったトランペットは、それからずっと加納のそばにあった。 それだけではない。父は海外ミュージシャンの来日公演などがあると、積極的に加納を連れていったという。

「小さな頃は会場で寝てました(笑)。きっとチケットは高かったと思いますが・・・。でも、よく覚えてます」父は写真家であり音楽家ではなかったが、加納を取り巻く音楽的環境を少しずつ整えていったにちがいない。その成果は、加納を「天才少年」として世に知らしめることになる。



周囲の協力も得て音楽の道へ

「僕が中学生当時、テレビ番組にたくさん出してもらいました。全国から天才少年と呼ばれる少年少女を探し出して作る番組が結構あったんです。もう三十年も前ですから、トランペットでジャズを演奏する中学生なんて、珍しかったんでしょうね」

テレビ出演をキッカケに、夏休みは大人と一緒にバンド活動をしたり、テレビ出演で知り合った仲間と事務所から仕事を受けたりしながら、音楽活動を続けていたのだという。

高校へは行かなかった。その代わり名古屋のYMCAで三年近く英語を学んだ。 「それもおそらく父が、将来のためになると判断した選択肢の一つだったんじゃないでしょうか」 すでに視力は極度に落ち、父は加納の人生の可能性を少しでも広げようと思ったにちがいない。

その間も加納の音楽活動は続いていた。

「音楽が仕事になってきたのも、その頃です。全国をトランペット一つ持って旅して歩くような感じでした。ですからまったく目が見えなくなった時にも、不安はありませんでした。音楽は自然に僕の仕事になっていました」

加納にとって、目が不自由なことは取り立てて障害ではなかった。

「血の滲むような努力という言葉は、僕には無縁でした。ただし、家族など僕の周囲の人々は、血の滲むような努力を惜しまなかったのではないでしょうか。 父は、普通の楽譜が見えない僕のために、大きなスケッチブックに楽譜を書き写してくれたり、ピアノを習っていた時も、ピアノ譜を写真にとって大きく引き伸ばしてくれたり。 若いバンド仲間も、楽譜を僕に付きっきりで口伝えで教えてくれたりしました。バックバンドとしての演奏の場合などは、行ったその日に十曲以上もの楽譜をその場で覚えなければならないなどということもありましたから、本当に周囲の人の苦労は並大抵ではなかったと思います」

加納は、いまでも周囲の人々への感謝を忘れていない。周囲の手助けがあったからこそ音楽活動が続けられたのだと、心底思っている。



「夢はいつの間にか現実になっていた」

地方公演などで全国を回る仕事は順調だった。だが、昭和四十八年のオイルショック時には落ち込んだ。

「トランペットでは常にバンドで活動することになりますね。バンドは不景気になると敬遠されるんです。それで再びピアノをやりはじめたんです。ピアノは一人でできますから。その時は必死で勉強しました」死活問題だったのだ。

自分で曲を書きはじめ、アレンジの仕事もはじめていた。そして、加納の心に「東京へ出たい」という重いが湧き上がってきたのもこの頃だった。 加納は名古屋からいったん帰郷する。上京するための資金作りが目的だった。「一年間、郷里の中津川で一所懸命に稼ぎました。東京へ出たのは二十三歳の時でした」

実は、東京へ出たい思いそれを実行する直前、加納は音楽の先輩である友人から、信仰の話を聞く。

彼は『お前の夢はなんだ』と聞くんです。僕は漠然と東京へ出たい、ニューヨークへ行きたいと思っていたんですが、彼は『信心すればそうなるよ』と。そんなものかと、素直に信心することにしたんです」

人の助けを借りなければ歩けなかったが、一人歩きをするための三カ月に及ぶ歩行訓練を受けた加納は、どこにでも一人で出かけることができるようになった。それから時を経ずに「ほとんど知り合いもいない」東京に加納の姿はあった。自分の可能性を信じ切った「勇気」ある行動の結果だった。

東京での活動は、キャバレーバンドでの仕事、弾き語りなどが多かったが、やがて自分のバンドを組み、ライブハウスでの活動もはじめる。レコード会社のディレクターの知己を得たりしたが、東京でのハイライトは、昭和五十七年に財団法人「広げよう愛の輪運動基金」が行った「障害者リーダー米国留学研修第一期派遣試験」にパスしたことだった。「試験の申し込み用紙に『ニューヨークで本場のジャズ理論、ピアノ、ヴォイストレーニング、作編曲を学びたい』と書いたんです。それから十カ月にわたる念願のニューヨーク留学が現実のものになったんです」 上京して四年後のことだった。

「夢は、いつの間にか現実になっていたんです」



師匠から学んだ豊かな人間性の大切さ

二十八歳でニューヨーク留学を果たした加納は、帰国後、再びニューヨーク行きを決意する。

「実は、留学中に著名なジャズピアニスト、ランス・ヘイワードに師事したんです。 ランスはバミューダ生まれで、僕と同じように全盲の障害者でしたが、一流のジャズピアニストになるという透徹した一念を、五十歳を過ぎるまで持ち続けた人だったんです。 バミューダからニューヨークに出たのは、五十歳を過ぎてからでした。それから活躍をしはじめたんです」

彼から受けた影響は、加納にとって計り知れない大きさだった。「僕も彼に続きたい。そう思ったんです」

再渡米。家財道具をすべて売り尽くして作ったお金は、ニューヨークへ着いた時、千ドルしか残っていなかった。 今度は学費援助などない。誰の助けも借りずに、自分の力だけでニューヨークを生き抜かなければならないと加納は覚悟していた。

「ニューヨークに着いて二週間後には仕事を見つけていました。留学中にできた友人の紹介でした。仕事はロングアイランドのレストランでの弾き語りでしたが、片道二時間かかる距離でした。 しかし、このレストランのオーナー夫妻も最高にいい人たちで、最寄りの駅まで仕事のたびに送り迎えしてくれたんです。それに仕事をするためのグリーンカード(永住権ビザ)の保証人にもなってくれました。 また、歩き回って見つけたアパートの大家さんも本当にいい人で、空いた部屋をものすごく安い家賃で貸してくれました。本当に、人に守られてのニューヨーク生活の始まりでした」

それだけではない。師と仰いだランス・ヘイワードの元を訪れると、マンツーマンのレッスンを快く引き受けてくれた。しかも、レッスン代を受け取らなかった。 「はじめお金を稼ぐようになったらレッスンしてほしいと言ったんです。そうしたら『来週から来い』と。 お金を稼ぐようになって、レッスン代を払おうとすると、『レコードでも出すようになってから考えろ』と言われました。それから八七年にレコードを出した(ミニLP『マンハッタンアイランド』キングレコード)後、今度こそレッスン代を受け取ってもらえるだろうと行くと、やっぱり受け取ってもらえませんでした」

実は、ランス・ヘイワード自身が、自分の師匠である人物に同じように遇されてきたのだ。「自分の弟子ができた時に同じことをやってやればいい、そういわれていたんですね」

ランスは、加納に「英語をしっかり覚えろ」と、一時間のはずのレッスンを二時間でも三時間でも続けた。 それから溜まり場に繰り出し、自分の仲間のジャズメンを加納に紹介し、昼間からグラスを片手に英語を教えてくれたり、ジョークを教えてくれたりしたという。 ランチも彼のおごりだった。

ランスから得たものは、演奏の技術だけではなかった。 「もっとも教えられたのは、障害者であることも踏まえた、人間関係の作り方でしょうか。ランスは人種や階級の差別なく数え切れないほどの友人に囲まれていました。 豊かな人間性こそが大事なんだと、本当に教えられました」

加納は、ニューヨークではすでに名の知れた存在だ。

ランス同様、お客を前にピアノを弾き語り、ジョークを飛ばし、人の心を引きつける。 今度は、ランスに受けた薫陶を、次の時代を担う誰かに伝える番なのかもしれない。



すべてのチャンスを自分のものにしていく

加納がニューヨークで暮らしはじめて、すでに十五年が経つ。加納の周囲にも多くの友人がいる。

「アメリカは人種差別があると言われますが、僕は人種差別というふうには思わない。むしろ言葉のハンディというふうに受け止めています。 どんどん喋ってコミュニケーションをしていけば、相手も僕のことをわかってくれるようになるんです。 ジョークの一つや二つ飛ばして、皆を笑わせるくらいのキャラクターを見せつけることができれば、人種の壁も崩れてくる」 加納は「僕にとっては白人も黒人も同じだ」という。 目が不自由なことで、肌の色の違いなどという余計な先入観を持たずにすんでいるのだろうか。障害のあることで、かえって人間の本質を見ている。

「アメリカでは障害のある人に対して、手を貸すというパーセンテージが圧倒的に日本より高いんです。 確かに点字ブロックなどの設備は、日本の方が充実してるかもしれません。でも人が手を貸してくれれば、充実した設備よりはるかに動きやすいんです。日本では障害のある人が維持を張って人の手を断ることなどがありますね。人も勇気をもって声をかけてくれるわけで、その人のオファーを感謝して受けるほうが大事ですね。当然、一人より安全ですし」

加納は、十年前から演奏活動以外に同じ視覚障害者に対するボランティア活動を行っている。

「去年の一月には、ボランティアのための非営利団を設立しました。アメリカにくる障害者を受け入れるアレンジをしたり、施設を訪問したり、ボランティア育成をしたり・・・」

今回の帰国でも、浜松市にある視覚障害者のための授産所「ウィズ」開所一周年のチャリティコンサートで演奏を披露した。

「人に助けられて生きて、触れ合って学んで。すべてのチャンスを自分のものにしていくことこそ大切」

加納は、最後にそう言った。人との出会いとコミュニケーションの大切さを、ニューヨークという異郷で肌身に感じてきた男の言葉だ。

取材が終わり、筆者はしばらくの道程、加納をエスコートした。急ぎ足だった。まるで筆者がエスコートされてるように感じた。

そして腕を掴む彼の掌から、やっぱりジャズが聞こえてきたように感じた。 (文中敬称略)

「もっと学ばなきゃいけない、そういう環境に自分があるということはすごいラッキーですよ」(タバコを吹かしながら、誇らしげに語る加納洋)

「一生かかってもいいから、後世に残る音楽をせめて一曲だけでもつくれたら最高ですよね」(頭を掻きながら、照れくさそうに夢を語る可愛い加納洋)



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